トリノパラリンピック日本代表の最終選考大会について、貴重な経験をしたので詳細に
報告する予定だったが、帰宅4日後に早くも追加発表があり7日後には結団式が行なわれ
てしまったため、気持ちの整理がつかぬまま2週間も遅れてしまったことをまずお許し願いたい。
その間、JPC(日本パラリンピック委員会)とSAJD(日本障害者スキー連盟)に宛てて、
「トリノパラ日本代表に関する質問状と要望書」を提出したが今のところ返答はない。
さて、トリノパラリンピックの最終選考レースは下記の日程で全11戦が行なわれた。
World Cup韓国大会(Yong Pyeong) 1月23~27日(SL1.GS2.SG2)
World Cup長野大会(志賀高原) 1月30~2月1日(GS2.SL1)
2006ジャパンパラリンピック(白馬八方) 2月3~5日(SG.GS.SL)
World Cup韓国大会(Yong Pyeong) 1月23~27日(SL1.GS2.SG2)
World Cup長野大会(志賀高原) 1月30~2月1日(GS2.SL1)
2006ジャパンパラリンピック(白馬八方) 2月3~5日(SG.GS.SL)
そして、私の最終挑戦は予告どおり以下の三大障壁を乗り越えることだった。
【1】現地でのクラシフィケーションでB3クラス再認定を受ける。→ソウルの病院で認定。
【1】現地でのクラシフィケーションでB3クラス再認定を受ける。→ソウルの病院で認定。
【2】日本代表の選考条件であるWC10位以内に入賞する。→SL第1戦では5位。
【3】パラリンピック出場資格のASD160P以下を得る。→GSで144.82Pを獲得。
まず、結論から申すとこれらの目標は一応達成されたといえるのだが、理不尽なことに
【3】パラリンピック出場資格のASD160P以下を得る。→GSで144.82Pを獲得。
まず、結論から申すとこれらの目標は一応達成されたといえるのだが、理不尽なことに
日本代表という結果には結びつかなかった・・・何故なんだ!!
【遠征中に経験した18日間の出来事~詳細は貴方に会って直接お話したい】
①空港へ向かう前に、日暮里でこのブログにコメントされていたMさんの取材を受けた。
②ソウルの病院で、韓国のIPC認定眼科医によるクラス判定を受けB3再認定を得た。
③仁川空港から龍平のホテルまで、私だけタクシーで3時間=3万円もかかった。(涙)
④ODESANは高級リゾートホテルで、オンドル部屋も快適・バイキング料理も美味い。
⑤ヨンピョンのコースは、ガチガチの急斜面でその恐怖たるや正に未体験ゾーンであった。
⑥ワールドカップ初出場のSL第1戦は、完走を目指し安全運転で5位の記録が残った。
⑦世界トップの選手が集い東海・大日方選手が1位、全体ではブラインドが最速だった。
⑧日本チームを襲った恐るべき風邪と食中毒で、30人中10人以上がリタイアしていた。
⑨鍼灸マッサージ師として毎晩3人以上の選手を治療、翌日のレースが好調で良かった。
⑩閉会パーティーのダンスタイムでは日本人代表としてFEVER、ストレス解消になったか?
⑪韓国で失ったGS板を買うために、成田から名古屋のKANDAHARまで回り道。(涙)
⑫日本初のワールドカップ志賀大会の表彰式では、何故か神田うのがプレゼンターだった。
⑬カナダのB3クリス選手のガイドであるボビー(3年前に福島でAETだった)と友達になった。
⑭西館山コース脇で、一般客のクレームから「こらぁ誰に兄ちゃん言うとんじゃー」と大口論。
⑮新しい板を買い志賀高原で待機していたが、ワイルドカードでの出場機会は与えられず。
⑯ネーションズカップに昇格し白馬八方で初開催されたジャパラは、運悪く荒天続きだった。
⑰ジャパラのTDは、グルノーブルオリンピックのアルペンスキー代表の丸山仁也さんだった。
⑱ジャパラは1位を目標とせず、全てフルアタックして全カテゴリーでの上位を目指したのだが。
⑲何とGSでは、フルチューンできなかった板で5年ぶりにF選手に逆転負けを喫してしまった。
⑳最終レースのSLは1本目仮タイム1位、結果ガイドDQ・・・でも彼女の涙は金メダル以上。
2月5日白馬八方、立会人3名の簡素な引退儀式だった・・・Gさつき2年間ありがとう!!